ひゅぽむねーまた

日日是口實。

桑原武夫『文学入門』(岩波新書, 1950, 1963改版)

よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。そしてわれわれが鍛錬されるのは、むしろそういう本によってである。(p.28)

小説が苦手だ。知識が得られないし、辛いことや悲しいこと、醜いことが多く書かれていて、それは作者の筆の中に完結している「現実」だから、取り戻せない。そもそも嫌なことは現実に溢れているのだから文章の中でだけでも幸せにしてほしい。

そう思っていたし、今でもひょっとするとその気持ちが頭をもたげる。

だがこの『文学入門』は、人間にとって文学というものが「必要である」と喝破する。

いやしくも独創性のある作家の作品をよむと、ああこのことだったか、と何か今までぼんやり感じていたことに、ぴったり形を与えられたような気持を覚えることが必ずある。これこそ文学の喜びといえるが、こうした大小の発見によって、文学は人間の世界を大きくし、深くし、その実質をますのである。また文学は発見によって、民衆の思うところに的確な表現を与え、そうすることによって、これを一そう強く実感させることによって、民衆を新しくする力をもっている。新しさをもつ文学が人生にいかに必要かはいうまでもない。(p.36)

ところで、われわれが理性、悟性、感性をもち、また生活のうちに知的、実践的、美的その他の面をもつことは事実であり、少なくともそう考えることが説明には便利だが、しかし、われわれが真に生活するかぎり、それらのものが別々に存するのではなく、われわれの身体のなかに共存し、いな一つのものとして身体と結びついていることは、いうまでもない。生きるとは、まさにそれらの区分された要素が実は一つのものであることを、行動において示すことにほかならない。(p.49)

登場人物に自分を重ね合わせることで、要素ではなく全人格的な視点を疑似的に得ることができる。それを現実世界に引っ張って来れば想像力となるわけだ。他者の視点に立つ試みを共感性というならば、共感性は、共感できない、自分と異質なものに接する時こそ必要となる。ならば自分を中心とせず、著者によって描かれた人物を中心とすることによってこそ鍛えられるのではないだろうか。

「なぜここで怒るのだろう。自分ならば怒らない。だが怒る理由があったのだろう。それは何だろうか」というような考え方をつとめてするようになった。現実世界でもかなり重要な、誤解をおそれずにいえば「技法」だと思う。対人コミュニケーションがスムーズにいくようになったのは、異質な主人公に乗り移ることを強制されたがゆえのことだったのかもしれない。

筆者は小説を読むとき、自分で読んでみてから「これを20代の女性ならばどう感じるだろうか」「70代のフランス人男性ならばどう感じるだろうか」と考えながら読むことにしている。それは自分の再読と他人の初読とのあいだにある、ある種中途半端な読み方であろうと思うが、そうやって頭と心の体操をしている。

面白い小説というのはその読み方ができるし、つまらない小説の時は「これを面白いと思う人の気持ち」を探りながら読むとそのうち面白く感じられるようになる。文学作品を読むときにこういう「楽しさ」以外の目的が先行するのは何となく違う気がするが、筆者はけっこう楽しんでいる。桑原氏は何と批評してくれるだろうか。