島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書, 1967)
天地ノタメニ心ヲ立テ、生民ノタメニ命ヲ立テ、往聖ノタメニ絶学ヲ継ギ、万世ノタメニ太平ヲ開ク。(p.1)
著者はこの張横渠の言葉を評して曰く
最後の「万世ノタメニ太平ヲ開ク」という一句は、例の昭和二十年八月十五日終戦の詔勅に用いてあるので、記憶している人も多かろう。その一語一語の解釈は今ははぶくとして、ともかくこのことばをまず記憶しておいていただきたい。というのは、宋学の根本精神というか、根本的気分というか、そのようなものを表現したことばとして、これほどみごとなものはないように思われるからである。(p.1)
と。更に日本の朱子学に対して
わが国の朱子学には、天地のために、人類のために、学の伝統のために、また万世のために、というような規模雄大な精神、そういうものがはなはだ欠けていたように思われる。(p.2)
とも言う。
確かに、日本の儒学は細かくよくまとまってはいる。伊藤仁斎や中井履軒など独創的な解釈を遺した学者もいるが、概ねは朱子や王陽明の枠内から出ることはないと筆者は感じている。
本書は、宋学に対して「老荘思想や仏教が与えた影響」という紋切り型の主張をある程度は認めつつも疑問視し、その影響を受ける側、すなわち読書によって指導者となった層(士大夫)に着目する。
だがこの本で筆者が心惹かれたのは、「儒教の叛逆者・李贄(李卓吾)」と題する一章である。痛快な生きざまが好きな向きにはたまらない人生を歩んでいる。「童心」という、無邪気さというにはあまりに力強い概念を説く彼は、周囲からすればさぞ扱いにくかったであろう。彼が獄中で自殺したのは胸に迫るものがある。
朱子による宋学の完成、王陽明による朱子の批判的継承など、かなり内容の充実した書きぶりである。ただし相応の前提知識は要求される。著者は「けっして専門書ではない。むしろいわゆる一般書、概説書の部類に属するであろう」(p.198)と言っているが、今は通用しまい……。
村上重良『世界の宗教』(岩波ジュニア新書, 1980, 2009改版)
とおい昔でも現代でも、宗教は歴史の歩みのうえで、重要な役割を果たしてきました。宗教は、ながい歴史をつうじて、数々のすぐれた宗教文化を生み出し、宗教の教えは、人類の思想を広く深く発展させました。宗教についてくわしく学ぶことは、人類の文化をよりいっそう深く理解するうえで、きわめて大切な勉強です。(p.iv)
日本人は無宗教だという人もいるが、実際に無宗教という人を筆者はほとんど見たことがない。墓参りもすればクリスマスにお祝いもする。それは宗教の中で暮らしているということではないか。
ただし、共有しておくべき宗教的な知識ということについて、かなりお粗末なことは事実である。宗教というのは共同体を作るための、歴史的に徹底的に練り上げられた仕組みであり、反発もふくめ、人間のありとあらゆる反応を引き起こす強烈なツールである。ゆえに支配者は宗教を統治に利用する。たとえば西洋型価値観の中においてはイスラームを十把一絡げで恐怖させることに成功し、仏教を神秘的だと思わせることに成功し、「原理主義」を過激派だと思わせることにも成功している。これは間接的に宗教を利用したメディア戦略である。逆に非西洋型価値観の中では、西洋の価値観を理解しないまま否定する向きが多いのは当然だ。
宗教というのがどういう理由で、どういう社会に生まれ、どのように運用されてきているかを知っておくことは、人間というものの性質を知るうえでの最重要項目の一つと言っても過言ではあるまい。まして政治や歴史を語るうえで宗教に関する知見がないのは片手落ちもはなはだしい。
その点で、メジャーな宗教から日本人にはあまりなじみのない宗教までを通覧できるこの本は便利である。頑張れば中学生からでも読むことができ、いやしくも大学生ならば分野を問わずこれくらいの知識は欲しい。
表現として「未開」など現代にそぐわないものもあり、また宗派に関する記述はそれぞれの専門家からすればいくらでも批判はできるだろう。しかし全体としてはかなり穏当な記述だと、筆者には思える。
日本においても自己責任教や冷笑教、論破教などの信徒がかなり多いようだ。取りたくなくとも絶対に何らかの立場を取っているのであるから、「自分は何かの教義に縛られている」という感覚は持っておいたほうがよいだろう。そのためには、そのシステム群である宗教について、少し調べてみてはいかがだろうか。
桑原武夫『文学入門』(岩波新書, 1950, 1963改版)
よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。そしてわれわれが鍛錬されるのは、むしろそういう本によってである。(p.28)
小説が苦手だ。知識が得られないし、辛いことや悲しいこと、醜いことが多く書かれていて、それは作者の筆の中に完結している「現実」だから、取り戻せない。そもそも嫌なことは現実に溢れているのだから文章の中でだけでも幸せにしてほしい。
そう思っていたし、今でもひょっとするとその気持ちが頭をもたげる。
だがこの『文学入門』は、人間にとって文学というものが「必要である」と喝破する。
いやしくも独創性のある作家の作品をよむと、ああこのことだったか、と何か今までぼんやり感じていたことに、ぴったり形を与えられたような気持を覚えることが必ずある。これこそ文学の喜びといえるが、こうした大小の発見によって、文学は人間の世界を大きくし、深くし、その実質をますのである。また文学は発見によって、民衆の思うところに的確な表現を与え、そうすることによって、これを一そう強く実感させることによって、民衆を新しくする力をもっている。新しさをもつ文学が人生にいかに必要かはいうまでもない。(p.36)
ところで、われわれが理性、悟性、感性をもち、また生活のうちに知的、実践的、美的その他の面をもつことは事実であり、少なくともそう考えることが説明には便利だが、しかし、われわれが真に生活するかぎり、それらのものが別々に存するのではなく、われわれの身体のなかに共存し、いな一つのものとして身体と結びついていることは、いうまでもない。生きるとは、まさにそれらの区分された要素が実は一つのものであることを、行動において示すことにほかならない。(p.49)
登場人物に自分を重ね合わせることで、要素ではなく全人格的な視点を疑似的に得ることができる。それを現実世界に引っ張って来れば想像力となるわけだ。他者の視点に立つ試みを共感性というならば、共感性は、共感できない、自分と異質なものに接する時こそ必要となる。ならば自分を中心とせず、著者によって描かれた人物を中心とすることによってこそ鍛えられるのではないだろうか。
「なぜここで怒るのだろう。自分ならば怒らない。だが怒る理由があったのだろう。それは何だろうか」というような考え方をつとめてするようになった。現実世界でもかなり重要な、誤解をおそれずにいえば「技法」だと思う。対人コミュニケーションがスムーズにいくようになったのは、異質な主人公に乗り移ることを強制されたがゆえのことだったのかもしれない。
筆者は小説を読むとき、自分で読んでみてから「これを20代の女性ならばどう感じるだろうか」「70代のフランス人男性ならばどう感じるだろうか」と考えながら読むことにしている。それは自分の再読と他人の初読とのあいだにある、ある種中途半端な読み方であろうと思うが、そうやって頭と心の体操をしている。
面白い小説というのはその読み方ができるし、つまらない小説の時は「これを面白いと思う人の気持ち」を探りながら読むとそのうち面白く感じられるようになる。文学作品を読むときにこういう「楽しさ」以外の目的が先行するのは何となく違う気がするが、筆者はけっこう楽しんでいる。桑原氏は何と批評してくれるだろうか。
中谷宇吉郎『科学の方法』(岩波新書, 1958)
コロナウイルス問題で世界中が混乱している。日本ではオリンピックが強行され、各地で「言わんこっちゃない」という状況が広がっているようだ。在宅時間が増えたので、積読を崩していく。
福島第一原発事故でもそうだったが、科学や医学に絡む大事件が起こると、「科学的に考える」という言葉がそこかしこで聞かれる。だが、科学的とは何だろうか。あるいは、科学とは何であり、また何ができ、何ができないのか。
こういうことに答えてくれる本が、『科学の方法』(岩波新書)だ。1958年に出た本でありはなはだ古いように思われるかもしれないが、自然科学というものの原則を理解するためにはいまだもって第一級の教科書と言える。
著者の中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)は人工雪の開発者として知られる低温物理学者。寺田寅彦の門下生であり、著作にはよく師の名が出て来る。
自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。(p.14)
そして、「科学が取り扱い得る面」とは何であるか、極めてわかり易く説明している。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。(p.89)
後半でほんのわずかに数式のようなものも出て来るが、苦手な向きは読み飛ばしても差し支えない。
とにかく、高校生以上はこの本の冒頭から第6章くらいまでは読んでおくと、色々と得をする(というか大損をしない)のではなかろうか。
復文で語学を学ぶ――どんな言語にも使える学び方――
ここしばらくPCから自分で文章を書くことがなかった。
Twitterに長いこと棲んでいる。ツリー機能が実装されてはいるが、どうしても140字という枠組みを意識して書いてしまうから、少し長めの段落を作ることが中々できない。また書いたものを見ながら続けていくのに不便だ。ブログならば少しはましだろうと思ってここに文章を書いていくことにした。
古典ギリシア語を大学でほんの少しだけ学んだが、他の語学は基本的に独学である。母が中学時代に思いついて実行した勉強法が「英文を和訳し、和訳からもとの英文を復元する。完全にできるまで何度でもやる」というものだった。総合力がつきそうだと思ったので自分でもアレンジしてやってきたが、数年前、それは漢学の基礎訓練の「復文」というものであることを知った。かのドイツ語の天才・関口存男も「逆文」と名付けて同様のことをしていたから、かなり普遍性のある方法なのだろう。
復文による学習法には次のような効果があるように思う。
- その外国語について……単語・文法・文体と読解・記述・聴解・発話とが同時に身につく
- 内容について……体系的な記述を通してその分野の知識や観念を得られる
- 母語について……プロの原文・プロの和訳を交互に参照し、さらに文法をふまえて繰り返し訳文を吟味するため日本語が磨かれる
また、できたかできなかったかが自分自身でわかるので、こと独学者にはかなり嬉しい方法だと思う。
私の復文の方法を詳述すれば、以下の通り。
準備するもの
- 原文
- 原文の朗読(オーディオブック)
- 邦訳書
- 辞書
- 文法書
邦訳書には、専門家からの定評があり、批判を受けるなどして誤訳が少なくなっている訳文を選ぶ。そのためには翻訳されて10年以上は経っていることが望ましい。となると原文は更に前のものとなる。読書によってきちんとした単語・文法・知識の基盤を築くのであるから、最新のものであるよりはむしろ普遍性を持った作品の方がよいように思う。
原文は、好きな作品があればそれでよいのだが、初心者はなるべくノンフィクションを選んだほうがよいと思う。フィクションはその言語のみならず文化的背景知識が必要とされる場合が多い。たとえば桃太郎や一寸法師をフランス人が読んでもかなり辛いと思う。実際に外国人が「日本の民話を読んだが、辞書に載っていない単語や、載ってはいても想像できないものが多くて閉口した」と私に話してくれたことがある。
辞書はなるべくカタカナに頼らないもので、かつ例文が豊富なものがよい。
音源は必ずしも絶対に要するものというわけではない。ただ、あるととても便利だ。発音を調べる手間をかなり省いてくれるし、リズムや調子など、文字からは読み取れない情報を与えてくれるからだ。
欧米にはオーディオブックというメディアがずいぶんと栄えている。
このLibriVoxなどはボランティアがアップロードした朗読を無料でダウンロードできるサイトとして大変ありがたい。もちろん出来不出来はあるものの、英語以外の朗読まで無料で落とせるのは貴重だ。またYouTubeにも同様のものがある。
これで準備万端である。
内容
大雑把に分ければ6つある。すなわち、
- 聴く
- 訳す
- 直す
- 書き写す
- 音読する
- 繰り返す
これは順不同である、というか、すべてを同時並行してやるようなイメージである。聴く時には頭の中で意味を理解するように努力するし、訂正する時はより正確な訳をしている、と考える。要するに「入力」「記憶」「理解」「出力」の4つを相互補完的に行うということだ。それは畢竟、語学かどうかを問わず、学習の全てだろう。
方法
順序を追って細かく分ければ以下のようになる。
- 邦訳をぱらぱらとめくり、気に入った章を探す
- よさそうな章があれば、さらにその章からよさそうなパラグラフ(段落)を探す
- そのパラグラフを手に何度もオーバーラッピング(音声に合わせて音読すること)をする
ここまでで、発音やリズム、調子が多少わかってくる。 - パラグラフの原文を自力で――つまり辞典と文法書とを使って――ノートに和訳してみる
- 自分の和訳が仕上がったら、邦訳と照らし合わせる
- 間違いがあれば消さずに、なぜそこが間違いなのかを再度文法書や辞典を引いて調べる
ここまでで、文法と単語とがわかってくる。 - チェックと修正が済んだら、今度はオーディオブックを使ってオーバーラッピングを行ない、さらに原文を伏せて、シャドウイング(音声を追いかけるように音読すること)とリピーティング(一文ごとに音声を一時停止し、そこまでを真似すること)などで最低でも20回ほどは音読する
- 原文を、自分の和訳をもとにノートに復元し、間違いはチェックしておく
- 完全に原文が復元できたら初回合格とする
ここまでで、発音・リズム・調子・文法・単語が総合的に訓練される。 - 初回合格の翌日、翌々日、一週間後にもう一度復元・音読などをする
ここまでやればかなり身体に染み込んでいる。ときおり原文・邦訳・自分の和訳を読み返すと記憶が更新され、また不明点も後から「ああ、そういうことか」とわかるようになる。ただまあ、暗記を目的とせずとも暗記するくらいの回数を続けた方がよいのは当然である。
おわりに
結局のところ読めて書けて聴けて話せればよいのだから、繰り返す回数などはもちろん各自で調整なさればよろしいと思う。結果が出せていれば方法の如何に構うことはない。ただ、こういう古典的かつ工夫の余地の多い方法はいくらでも学習者に合わせて成長してゆく。方法にこだわっていつまでも結果の出せない人に最適かもしれない、というようなことを、ふと感じた。
筆者のこと。
自分のことを忘れないために書いておく。
この世界には、好きなことと、まだ好きでないことだらけだ。
きらいなのは「不寛容」だけでありたいと思っている。
出版業界で暮らしているので本はそれなりに読むが、暗いフィクションがにがてだ。暴力的な表現もだめだ。そういうものは現実のなかにあふれていて、せめて本の中では楽しい夢を見ていたい。
日本語を教える仕事もしている。本屋さんで教材を選んでいる人には心の中で声援を送るし、たまにいっしょに選んであげることもある。お金をいただくが、生徒さんが払えないときは、母国語や、文化的知識やレシピなどで代替することもある。
学校の勉強がつまらなかったから、本や人に教えてもらった。学校の勉強は大切だということと、学び方を自分で工夫できれば何倍にも面白くなることがわかった。教える側になったけれども、学校になじめない子の相手をすることが多い。
自分の時間が何よりだいじだ。ともだちはえらぶ。
音楽が好きで、生まれ変わったらオルガンになろうと思って徳を積んでいる。解脱はとうぶんできそうにない。